因果応報なんてない。

たまに「因果応報」という言葉を目にする。

しかし、自由を得たければ、この因果応報という言葉は気をつけた方がいい。

この因果応報という言葉に惑わされ、自由を失ってしまう方がいる。

それと、因果応報は差別を生む危険な観念なので気をつけたい。

そもそも因果応報なんてこの世に存在しない。

単なるデタラメ。

因果応報の意味を調べてみると一応こうなる。

「よいことをすればよいことが返ってくる。

悪いことをすれば悪いことが返ってくる。」

一見、もっともらしく見える。

しかし、ここには大きなワナがある。

この因果応報という言葉に惑わされ、自由を失うのはもったいない話である。

理由1 何をもって「良い」ことなのか?「悪い」ことなのか?が証明できない。

そもそも、何をもって善悪の判断ができるのか?

たとえば、わたくしは中学校の時、登校途中に鳩のフンが落ちて、肩についてしまった。

その時は「なんてこったい!ついてない!」と思った。

しかし、よく頭を働かせると、幸運にも近くに友人の家があることが分かった。

友人の家に行き、鳩のフンを取り除くことに成功した。

この件について、「鳩のフンがついた」ことを「悪いこと」と捉える人もいるだろう。

因果応報という言葉を信じてる人は、自分は悪いことをしたからだと自分自身を責めるかもしれない。

過去になにか悪いことをしたのではないか?と思考を巡らせるかもしれない。

でも、善悪の判断は本人の考え次第だ。

鳩のフンが「肩」についたことで「頭でなくてよかった」と「善」の判断をする人もいるだろう。

友人の家が近くにあったから「善」の判断をする人もいるだろう。

学校に行った時、「一笑い取れる」と考えればおいしい出来事とも取れるかもしれない。

逆に「不幸」なので「悪」だと判断する人もいるだろう。

これは主観によるからそもそも善悪の判断はつけられない。

だから、因果応報は証明できない。

理由2 何の因果かがわからない。

それと、もし、悪いことをしたら悪いことが返ってくるとしたら、一体、「いつの悪いことなのか?」が判断できない。

たとえば、先ほどの鳩のフンでいえば、

ああ、そういえば、「昨日同じクラスの隣の子が、消しゴムを落とした時に拾わなかったからかもしれない」と考えるかもしれない。

それとも、3才の時に、気を遣って近所のおばちゃんがお菓子を持ってきたのに、それに対して「まずい」と言ってしまったことと考えるかもしれない。

しかし、結論として、悪いことが起きた時に、「いつ」の悪いことかは証明できないのである。

だから、因果応報は証明できない。

理由3 量を判別できるのか?

もし、因果応報が存在するとしたら、量で判断できるのか?

たとえば、鳩のフンが肩についたとしよう。

本人としては大したことないと考えているから、この「悪」は100点中1点の価値だと。

しかし、もし、頭についていたら「悪」は100点中50点の価値だと。

とすれば、「そうか。おれは過去に100点中1点の悪いことをしたんだ。」と考えるのだろうか?

その蓄積?はどうやってするのだろう?

採点は誰がするのだろう?

いつその点数の帳尻を合わせるのか?

だから、そもそも因果応報など証明できない。

 

因果応報は「差別」を生む危険な発想

そして、因果応報の一番の問題は、「差別」を生むことだ。

もし、因果応報が仮に存在するとしたら、今、悪いことが起きている人は過去に悪いことをしたからなのか?

たとえば、いじめに遭っているとしよう。

その子は過去に悪いことをしたからか?

必ずしもそうとは言えない。

意味もなくいじめの対象になる子は残念ながらいる。

そういう子に対し、因果応報の観念を持っている人は、「あいつは過去に悪いことをしたんだろう」と差別してしまう。

これがとても危険だ。

他にも例はある。

たとえば、親を事故や病気で亡くした人はどうするのか?

わたくしも17才で父を亡くしている。

それに対し、因果応報という観念を持ってる人がいたら、「ああ、あいつは過去に悪いことをしたんだろう」と差別してしまうかもしれない。

たまたま、事故や病気で亡くした人を因果応報の観念で責めるのは酷である。

他にも例はたくさんある。

たまたま事件に巻き込まれた人はどうなるか?

因果応報の通り、過去に悪いことをしたからだろうか?

そんなことは一切関係ない。証明できない。

わたしたちは、因果応報なんて言葉を信じてはいけない。

それは差別を生む危険な発想だから。

因果応報なんて観念を信じ込んでいるがために、差別され、つらい想いをしている人は世の中に多く存在するだろう。

わたしたちはそれを防がなければならない。

おそらく、因果応報という言葉は権力者が都合良く作った観念だろう。

たとえば、エリートや貴族は、前世や過去によいことをしたから当然、現世で贅沢をしても良いという発想など。

人は見返りがあるから行動するのか?

では、因果応報は犯罪などの抑止効果があるのでは?と考える場合について。

わたくしはそうは思わない。

「悪いことをしたから悪いことが起きる。だから悪いことはしない。」

これでいいのだろうか?

そもそも人間として良心があり「悪いことはしない」のが本来人間のあるべき姿ではないか?

「良いこと」が将来起きる、見返りがあるから良いことをするのだろうか?

これではあまりにも寂しい。

そうじゃない。

良いことをするのは、本人がしたいからだ。

たとえば、落ちていたハンカチを拾ってあげるのは、感謝されたいからするのではない。

将来見返りがあるからするのではない。

ただ、拾って役に立ちたいと思ったからする。

溺れている人を助けるのは見返りがあるからか?

そうじゃなくて、本当に心から助けたいと思って飛び込むのではないだろうか?

つまり、因果応報で事を成すのではなく、人の「良心」が事を成すのが自然。

 

因果応報はないが因果関係はある

しかし、わたしの結論としては、因果応報はないが、因果関係はあると考えている。

たとえば、先ほどの鳩のフンで言えば、「登校している」という原因があって、「鳩のフンがついた」という結果があっただけ。

そこに善悪の判断はない。

新商品を開発して売れなかったとしよう。

それは、「新商品」という原因があって、「売れなかった」という結果があるだけ。

そこに善悪の判断はない。ただ売れなかっただけだ。

ここに「ああ自分は過去に何か悪いことをしたから売れなかったんだ」と判断するのは過ち。

ただ、因果関係を分析し、未来に活かすだけだ。

 

ということで、わたしたちは因果応報という言葉には気をつけた方がいい。

そんなものを信じているがために自由を失ってしまっては、せっかくの人生がもったいない。

何か不幸なことがあったとして、因果応報だといってふさぎ込んでしまうことこそあってはならないこと。

人は人生をいつだって変えることができる。自由に。

わたしたちは未来に生きることが大事である。

また、わたしたちが因果応報の観念はないと考えることで、救われる人たちはたくさんいるだろう。差別もなくなるだろう。

よりよい世の中にするためにも、因果応報の観念など存在しないという価値観を広めたい。

そして、多くの人に自由に生きてほしい。

作野裕樹(さくのひろき)

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